永田秀次郎(青嵐)の著作と関係図書

【青嵐の著作】

『永田青嵐句集』

永田青嵐著(永田亮一編)・昭和331220日・東京・新樹社・B6判・392p・函入り

 注記;題僉および青嵐肖像「父の面影」永田亮一・画[巻頭]写真版2丁、序・高浜虚子、序・永田亮一(父の思い出、句集出版の経緯などを記す)。[本編]俳句集・俳句随筆[巻末]青嵐永田秀次郎略年譜。[所蔵]県立図、洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]青嵐は「句集などは自分の死んだ後に誰かが出してくれればそれでよい」と、生前に句集を持たなかった。没後16年にして、唯一の句集として嗣子亮一氏の手によって編まれたのがこの本である。この句集には2千2百余句が採録されているが、青嵐が生涯に詠んだ句は数万あるであろうと、亮一氏がのべている。そこで、研究者かご縁の方にお願いしたいのは、その全てとは云わないがせめて半分位は蒐めて「全句集」を編んで欲しい。おそらく今が、その作業ができる最後の時期ではないかと思っている。

 なお、いま青嵐の句集を手元に置きたい方には、この本から抄出した新書版の『永田青嵐句集』が2009年にふらんす堂から出ている。

 

『わが愛する偉人 諸葛孔明』

 永田秀次郎著・大正9年5月10日再版(大正9年3月15日初版)・東京・敬文館・170×102㍉・376p・函入り

注記;[巻頭]序・永田秀次郎、改題について・吾耻庵主人再識。

[所蔵] 淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]この本は、著者が33歳熊本県警察部長であったときの明治43年に「我愛する偉人」の題名、匿名(吾耻庵主人)で出版したものを、大正9年改題のうえ再刻したもの。著者の処女作である。この序文で永田は「時代の風潮に対して満腔の不満を抱いて東京より帰県するや直ちに筆を執り一気呵成に書き流したもの」と、この本を書いた動機を記している。政治家永田秀次郎の思想の原点を知る格好の書であると思う。

 

『高所より観る』

永田秀次郎著・昭和5715日7版(昭和5年6月25日初版)東京・実業之日本社242pB6判・函欠             [所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 [解説]

 この本は、第一期東京市長を辞してからの浪人生活時代、子息亮一をともなって5ヶ月の欧米視察にでかけたときの見聞録である。この旅行で得た世界情勢の見聞は後に就く第二期東京市長、拓務大臣、鉄道大臣、帝国教育会会長等々の仕事に資したものと思われる。この本のキャッチコピーは次のように記している。「欧米に遊び世界の大勢を達観して、吾が国体の精華を闡明せる周遊記」。

 

『青嵐随筆 梅白し』 

永田秀次郎著・昭和6215日再版(昭和6年211日初版)・東京・実業之日本社・236PB6判・クロス装、カバー、函入り

 [所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]

 前著もそうだが、青嵐のエッセイが当時の読書界にどのように迎えられたということを知る、格好のキャッチコピーを紹介しておきたい。

「輿望百パーセントの帝国教育会長が、心魂を傾けて綴れる玲瓏珠玉の如き随筆集」

「諧謔と警句、皮肉と真摯の間に、枯淡軽妙の筆を以つて、俳諧を語り、連珠を談じ、文芸を論じ、修養を講じ、時には釣に懺悔して、青嵐にうそぶき、転じて名士を掌上に弄んで、その人物を赤裸々に月旦し、批評する等、一読顔破一笑、真に著者の真面目全巻に躍如たる近来の良書である。」

 

『青嵐随筆 九十五点主義』

永田秀次郎著・昭和10年2月25日・東京・実業之日本社・293p

B6判・クロス装、函入り

注記;[巻頭]口絵写真1葉・最近の著者、序・青嵐。

 [所蔵]県立図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 [解説]この本は、青嵐が数年間に書いたエッセイやラジオ放送の原稿、演説原稿を集めたものだが、書名となった”九十五点主義”は、青嵐の人となりを語るときにはよく引き合いにだされる。この本の第一章「私の処世観」の冒頭で、九十五点主義についてこう述べている。「水、器に満つれば必ず溢る、一升の容器には、一升を容れては危ない。九合五勺にしておけば、無事である。何事にも、完全無欠といふものは少い。若し強ひて完全無欠を求むとすれば、そこに無理が伴なふ事を免れない。」と。

 

『日本の前進』

永田秀次郎著・昭和141029日・東京・新潮社・228pB6

注記;[巻頭]口絵写真1葉(著者近影)。序・永田秀次郎

[注記]カバーの表記。タイトルの横に「皇紀二千六百年記念出版」と付記あり。

 [所蔵] 県立図、洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]この本を出版した昭和14年の8月、永田は阿部信行内閣の鉄道大臣として二度目の入閣をしたが、同じ年の9月3日に欧州では英仏がドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。日本を取り巻く国際情勢も厳しくなり翌15年1月には阿部内閣は総辞職をし、国内の政治体制は急速に臨戦体制になっていった。こんな時代に書かれた本だけに、戦争の火の手がやがてアジアにも及ぶであろうことを予感し、永田は日本国民に自信と勇気を与えんとしてこの本を著したもので、書名にも時代相がでている。折しも、翌昭和15年は神武天皇が即位してから二千六百年の節目にあたるということで、その祝祭が大々的に行われて戦争準備への気分が高揚された。そして日本は、16年12月に米英に宣戦布告をするのである。

 

『永田秀次郎選集』

永田秀次郎著・昭和17510日・東京・潮文閣・B6判・339p

注記;[巻頭]序・著者識。

[所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]この本が、青嵐には最後の出版となった。内容は、過去に出版した本、書いた原稿からのエッセンスを集めたもので、編集は出版社がしたが青嵐も眼を通し次のように云う「蕪村は生前自分の俳句選集を作らなかった。それは之を蒐集してよく見ると我ながら其の貧弱なるに愛想が尽きる感を抱くからであった。…選集全般を通観して私は矢張り蕪村の気持ちに無理は無いと自ら嘲る事を禁ずるを得ないのである。」と。しかし、これは青嵐の韜晦である。自己宣伝がまかり通る現代と違って戦前の日本人は謙虚であった。青嵐は大正・昭和(戦前)時代のすぐれたエッセイストに違いない。

 

『我思ふ所』

 永田秀次郎著・大正71124日(大正71230日三版)・東京・博文館・B6版・224p

 注記;[巻頭]序・於鶴見不二見台寓居 吾耻庵主人識。

 [所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 

『平易なる皇室論』

 永田秀次郎著・大正10118日(大正1021813版)・東京・敬文館・B6 判・154p

 [所蔵] 淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 

『青天の白鷺』

 永田秀次郎著・大正101110日(大正1011253版)・東京・敬文館 ・205p178×105

 注記;[巻頭]序・青嵐識。

 [所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 

『日本の堅実性 慶びの春に』

 永田秀次郎著・大正1311日・東京・敬文館書店・B6判・216p

 注記;[巻頭]序・於吾耻庵 青嵐識。

 [所蔵] 淡路図 [所蔵;吾恥庵

 

『青嵐随筆』

 永田秀次郎著・大正131118日・東京・敬文館書店・177×105㍉・190p・函入り

[巻頭]口絵写真、序・永田青嵐居士識す。   

 [所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 

『建国の精神に還れ

 永田秀次郎著・大正15年2月1日・東京・実業之日本社・92pA5

 注記;[巻頭]序・建国祭宣言書および建国祭綱領。

 [所蔵] 淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 

『放送懺悔』

 永田秀次郎著・昭和12415日(昭和12年4月17日3版)

 東京・実業之日本社・262pB6判・カバー、函入り

 注記;[巻頭]口絵写真・著者近影、序にあらざる序・著者。

 [所蔵] 洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

 

【関連図書】

『青嵐先生の追憶』

青嵐句碑建設委員会編集部(代表者・村上謹一)編・昭和27429日発行・淡路・青嵐句碑建設委員会・B6判・98p

[注記]表紙題僉・大内兵衛書。中扉題字「青嵐先生の追憶(添字)後学 大内兵衛謹題」。〈巻頭〉はじめ・青嵐句碑建設委員会

〈目次〉口絵写真2丁。青嵐先生記念誌編集に際し・兵庫県知事岸田幸雄、青嵐先生小伝、略年譜、追憶集l(和田性海ほか8人)、月旦評、父の思ひ出と句碑へのお礼・永田亮一、作品抄、青嵐会、句碑建設経過要録。

[所蔵] 淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]

 この本は、永田青嵐没後10年を経て、青嵐を追慕してやまない郷人たちが相寄って、顕彰句碑の建立とその記念誌を編んだもので、98ページの小冊子であるが、淡路にとって待望久しかった顕彰句碑であり、追憶集である。書誌に記すように、

小冊子とはいえ、四方から青嵐大人に光をあて、その人柄と業績を照らしだしている。ただ編集子が「はじめに」の文の最後に「願わくは此小誌が先鞭となって、後年何人か、時を得資を得て、更にまとまった此の“平凡なる偉人”の評伝が上梓されるに至らんことを」と書き遺した期待がまだ果たされていないことに思いが行く。

 

『永田青嵐と東京』

永田秀次郎氏記念句碑建設會著・昭和271125日・東京・東京愛市協会・B6判・124p

注記;[巻頭]口絵写真2丁。まえがき・永田秀次郎氏記念句碑建設世話人代表、前田多門

[巻末]著作目録、震災雑詠および青嵐の句歴を寸描、略年譜、あとがき。

[所蔵;吾恥庵]

[解説]

 前書とおなじく、この書もまた青嵐を追慕する東京周辺の知友、市民らの手によって準備された記念句碑建立の際に編まれた記念誌である。此処での記念句碑は、時おなじく大震災の30回目の震災忌に花を添えるものとなった。記念句碑建設世話人代表は、後藤新平市長を永田と共に助役として支え、のち大臣にもなり実業家としても名をなした前田多門であった。冊子の内容は、政治家永田秀次郎の東京市長時代を詳述している。加えて、晩年に陸軍軍政顧問としての任についたときの永田の内面を温かい眼差しでみつめている文章が印象的である。

 記念句碑に彫られた句は、震災雑詠のなかの一句

  焼けてなお芽ぐむちからや棕櫚の露

で、碑陰に書かれた銘文は次のとおりである。

「これは永田秀次郎氏が大正十二年東京市長就任後まもなく遭遇した大震火災の混乱悲惨をきわめる焦土のさ中にあって再建に奮いたつ市民の意気に感激し復興と題してよんだ句である。氏はその寛仁の風格と独特の話術および俳人青嵐の名によって広く市民に親しまれたが、特に震災当時罹災者に示した深い愛情と適切な善後措置とは永田市長の名を不朽のものにした。

 氏は明治九年淡路島に生れ…(下略)いま震災三十年記念日を迎えて氏を追慕するの念いよいよ深く、ここに句碑を建ててその高風と治績とを長く後世に伝える

  昭和二十七年九月一日  永田秀次郎氏記念句碑建設有志 」

 

「永田秀次郎震災復興につくした俳人東京市長

              (『郷土百人の先覚者』所収)

『郷土百人の先覚者』副題:兵庫県政百年記念・兵庫県教育委員会編・                               昭和4271日・神戸・兵庫県教育委員会・6709pA5判・クロス装函入り

  注記;クロス装函入り上製判と並製普及判との2種がある。

[所蔵]県立図、洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]

 この本は、副題にあるように慶応4年に兵庫県が誕生して百年目にあたる昭和42年に刊行すべく40年からその編集作業に入った。選考の基準として、地域的職種別にかたよらないことなど5つの選考基準をたてたうえ、中世以前を割愛して、まず各市町教育委員会の推薦と人物誌、市町村史を参考にまず800名を選びだし、その中から第一候補として200名に絞り県下高等学校の先生らに執筆を依頼、これをさらに編集委員会で100名の候補を選んで選考委員会にかけて決定した。選考委員会は委員長に神戸市史編集委員長小倉敬二ほか9名の委員がなった。

 この百人になかに選ばれた淡路人は永田秀次郎の外に賀集珉平、岡田鴨里、三木善八、岩野泡鳴、西川光次郎がいる。

 

 

「永田青嵐」上田都史著『近代俳人列伝・第2巻』所収)

 (『近代俳人列伝・第2巻』上田都史著・昭和62130日・

   東京・永田書房・309pB6判・函入り)

 [所蔵] 県立図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]著者の『近代俳人列伝』全3巻に採録の俳人は60人、その中で淡路島ゆかりの俳人は永田青嵐のみで、高田蝶衣や岩木躑躅の名はない。

 

 

「永田青嵐」北原洋一郎著(『大阪の俳人たち4』所収)

 『大阪の俳人たち4 上方文庫15』大阪俳句史研究会編

  1995715日・大阪・和泉書院・246pB6

 [所蔵]県立図、洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]

 叢書『大阪の俳人たち』既刊全6巻に採録の俳人52名のうち、淡路島ゆかりは永田青嵐のほか高田蝶衣、岩木躑躅の3人である。いずれも、著者は北原洋一郎さんである。


 

『幻の東京オリンピック』

 橋本一夫著・1994824日・東京・日本放送出版協会・254p

 B6判

 [ 所蔵]県立図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]オリンピックを東京で、と東京市長だった永田秀次郎はどうして思いつき、またその実現のため当時開催に腰が重かったスポーツ界をどのようにして説き伏せたのか。そして、最後に大会を返上するという永田の初志に反するようなことにどうしてなったのか。当時の国内、国際情勢を背景に丹念にその経過をたどった好著。

 

 

『「東京、遂に勝てり!!」1936年ベルリン至急電』

鈴木明著・19941020日・東京・小学館・510pB6

[所蔵]洲本図、淡路図 [所蔵;吾恥庵]

[解説]

 東京市長(2期目)だった永田秀次郎が、先頭にたって昭和15年にオリンピックを東京へ誘致することに奔走、昭和11年(1936)の IOC総会で承認されるまでの経緯をくわしく記したノンフィクション。このオリンピックは第二次世界大戦の前年という国際情勢の悪化のため返上され、幻のオリンピックとなった。


 

 『兵庫県人物事典下巻』のじぎく文庫編・昭和43年6月30日・神戸・のじぎく文庫・

        123pB6判 

 

『緑町風土記』緑町合併20周年記念誌編纂委員会編・昭和5241日・淡路・編者同同

   235pB5

 

『三原郡史』三原郡史編纂委員会・昭和54

  『三原郡史』については、別項参照。

 〈注〉 アンダーラインのある青色の文字をクッリクすると、関連するページへリンクします。

 

『コンサイス人名辞典・日本編』三省堂編集所編・1981110日・東京・三省堂   

    1219pB6