最盛時の淡路航路図(平成9年頃)
        最盛時の淡路航路図(平成9年頃)

 大阪・兵庫と淡路島を結ぶ阪神への定期航路の開設は、明治13年の淡路滊船会社の設立に始まります。その後、明治17年に淡路滊船を買収した大阪商船時代、大阪商船の瀬戸内航路を譲りうけた大正3年からの摂陽商船時代、昭和17年から昭和戦後にかけて瀬戸内航路に君臨した関西汽船時代、そして阪神航路の最後となった平成6年からの共同汽船時代でもって終了し、阪神航路は118年にわたるその歴史を閉じました。         また、阪神航路に劣らぬ重要な海路であった、島の北端の岩屋と対岸の明石を結ぶ播淡航路と南端の福良と四国の橅養・鳴門を結ぶ阿淡航路の定期便も、明治初期には運行を始めていました。この幹線となる3本の海路のほかに、淡路と紀伊・和泉を結ぶ由良・深日(当初は加太、淡輪)間の深日航路や、西浦と播磨(明石)を結んだ湊から富島・明石間の西淡路航路、沼島と結ぶ沼島航路、平成6年に開港した関西国際空港と結ぶ関空航路などの定期便があり、淡路島の周辺には海の道が四通していました。                        これら貨客船による海上輸送をおびやかすものとして、昭和20年代末頃に到来したカーフェリー時代は、淡路島では、昭和29年に県営で開始した岩屋・明石間、福良・鳴門間の運行から始まりました。その後大阪湾フェリー、淡路フェリー、西宮フェリーなどの航路が島の周辺に張り巡らされ、昭和40年代には “海のハイウエイ”と呼ばれるフェリーの全盛時代を迎え、従来からの貨客船航路と競合しました。                            このようにして淡路島周辺に八達した海の道と、その上を走る海の乗物も、昭和60年6月8日の大鳴門橋、平成10年4月5日の明石海峡大橋と神戸淡路鳴門自動車道の開通によって大方は駆逐され、海の道のほとんどは閉ざされてしまいました。架橋までの長い年月、島人は明石海峡大橋を“夢の架け橋”と呼び、供用を開始したこの時を“島が島でなくなる日”と歓呼しました。しかし見方を変えれば、この日は淡路島人が海の道を使っての交通は不便で非能率だとこれを捨て、高速道路と大橋を選んだ惜別の日でもありました。                                                             その日から早や13年が過ぎ、今では、海の道とその上を走る船があったことさえ忘れ去っていますが、島の四囲に海がある限りは、淡路島にあった海の道と船の旅の歴史は記憶し語り続けていかねばならないと思うのです。 そんな想いから、淡路島の海上交通史を綴ってみました。この小文が、船の旅——海の道を行く船に身をゆだね、近づく(遠ざかる)島影と長く尾をひく水脈に眼をやりながら、人と郷に想いをはせた日々があったことをふり返るよすがにでもなれば幸いです。                                                         平成23年6月25日  執筆者識

       失われた海の道・回想の船旅

               〜淡路島海上交通小史〜

    はじめに

 明治の初め頃の淡路島が置かれていた地理的・文化的環境について 明治10年創刊の淡路新聞は、その創刊の辞に次のように述べています。                     「吾淡路国ノ地勢タルヤ南海ノ一孤島ニシテ、西ハ鳴門ノ海峡険シク北ハ岩屋ノ海潮急ニシテ、東面阪府神港ノ盛地ヲ一瞳視スルモ、未タ電信汽船ノ便非サルヲ以テ人気敏捷百般他邦ニ譲ラサルモ、日時ヲ競フノ新説奇聞ニ至テハ聊隔靴ノ嘆ナキコト能ハス」。          まして、人や物資の往来となると、潮待ち、風待ちという海路の不確定さが、その迅速な往来を妨げる絶対的なあい路となっていました。 当時の淡路島の指導者たちは、この“孤島”から脱却することが淡路島の近代化の第一歩と考え、さまざまな事業に取組みました。電信電話・郵便制度の誘致、新聞の発行などなどとともに蒸気船による本土との定期航路の開設もその一つでした。

  目次

 第1章     旅客船航路の変遷

   第1節     阪神航路

    ⑴ 淡路滊船と大阪商船の時代  ⑵ 摂陽商船の時代  ⑶ 関西汽船の時代      ⑷ 共同汽船の時代

  第2節    紀伊・和泉航路

   (1)東淡汽船と摂陽商船の時代 (2)摂陽商船の時代 (3)関西汽船の時代

   (4)深日海運の時代  (5)シャトルサービスの時代 

  第3節 播淡航路  第4節 阿淡航路  第5節 沼島航路  第6節 関空航路

 第2章    フェリーボートの登場と退場

   第1節   県営フェリー  第2節 淡路フェリー  第3節 その他のフェリー

 第3章 海上旅客運送業の現在

  (注)

   ①、青字部分は展示中、黒字部分は作業中です。

   ②、展示内容について、文章部分の変更はありませんが、映像資料については発表

     後も随時追加、入替えを行っています。


 

 

第1章 旅客船航路の変遷

 第1節 阪神航路

  (1)淡路滊船・大阪商船の時代  明治13〜大正3年(1880-1914)

 淡路の人と資本によって明治1316日に開業した淡路滊船会社は(注1)510日洲本川口で開航式をおこなった(注2)。資本金5,500円、社長は松野克己(注3)であった。創業時は蒸気船淡路丸(33㌧)一隻で大阪・兵庫〜洲本間を一日一往復していたが、評判がよく、ほどなく第二淡路丸(106㌧)、新淡路丸(133㌧)を購入、毎日2艘の船で大阪・兵庫・仮屋・志筑・洲本間を6時間で往復した。そして、16年、大阪湾沿岸と瀬戸内航路の開拓整備に乗り出していた有限責任大阪商船会社(明治26年株式会社大阪商船に社名変更。資本金120万円)から瀬戸内に群立する運送会社の統合合併の話があり、淡路滊船はこれに応じた。注4)

 淡路滊船を吸収合併して淡路島航路を引継いだ大阪商船は、淡路滊船から買収した船舶でもって大阪・兵庫〜洲本間の航路を運行した。このときの運行表(注5)には、

 第十五本線 大阪 兵庫 仮屋 志筑  洲本

           淡路丸     第三淡路丸

   大阪港出港定日 半の日      丁の日

   最終港出港定日 丁の日      半の日

       (注:半の日は奇数日、丁の日は偶数日を云う)

とあり、これによると一日一往復を2艘の船(淡路丸、第3淡路丸)で運行していた。

 明治23年に書かれた旅行記によると、往路は午前6時洲本発で、正午12時に大阪着とあり、復路は午後3時大阪発で、9時に洲本着とある。(注6)  

 

 

(注1)『淡路滊船会社創立定款』明治12年
(注1)『淡路滊船会社創立定款』明治12年
        (注2)淡路滊船の淡路丸開航式の記事(明治12年5月14日あはぢ新聞第171号)
        (注2)淡路滊船の淡路丸開航式の記事(明治12年5月14日あはぢ新聞第171号)

(注3)

 社長・松野克己(まつのかつみ)。松野は回船問屋をいとなむ洲本の素封家。安倍喜平、林民津、児島源蔵らと滊船会社の設立を志し、島内の有志によびかけて26人の出資協力者を得て設立、松野が筆頭株主として社長を務めた。松野は国学に長じ、歌人としても著名であった。号、真維。

(注4)

「明治16年の年末に、大阪商船会社が淡路滊船会社に合併を申込み来り、当時の淡路滊船会社としては社勢微々たる状態で、到底大資本を擁する大阪商船会社に競争して営業を継続する能はずとの見地から、其申込みに応じて潔く譲渡し、此処に愈々大阪商船会社が淡路航路を開始するに至ったのである。」

 (『淡路之誇・下巻』片山嘉一郎編著・昭和71225日・実業之淡路社)


        (注5)明治17年大阪商船会社社船出港定日表(「大阪商船株式会社八十年史」)
        (注5)明治17年大阪商船会社社船出港定日表(「大阪商船株式会社八十年史」)

 

 

 

(注6)

 『東遊日記』村上俊平著・明治243月・私家版

〈本文〉 

「明治二十三年三月十一日午前六時、滊船発洲本。  (中略)是日天晴風暖。山水皆馳、漸北又漸東、日将午、 滊笛聲中逹大阪。

 (中略)

 午後三時滊船発大阪。同舟多郷人。笑語嬉嬉、 殆有家 郷団欒之想。九時達洲本。(下略)」

 

  (注7)明治36当時の航路図(「淡路案内記」明治36年6月20日淡路新聞号外)
  (注7)明治36当時の航路図(「淡路案内記」明治36年6月20日淡路新聞号外)

 

 明治も中期を過ぎると、大阪商船は阪神航路の大阪・兵庫〜洲本間を1便増やし2便往復としたうえ寄港地を由良までのばし、さらに西浦・東浦の主要港への運行もはじめている(注7)この大阪商船の間隙をぬって他の運送業者により、東浦航路では、明石・岩屋・浦・仮屋・佐野・生穂・志筑・塩田・洲本・由良間を小蒸気船淡路島丸が1日1往復便を、西浦航路では兵庫・明石・野島・富島・育波・室津・尾崎・江井・郡家・明神・都志・鳥飼・湊間を小蒸気船2隻で1日往路1便、復路1便を、加太航路では東淡汽船合資会社の浪速丸、泉淡丸が運行していた

 そして、大正時代に入って大阪商船は九州別府航路を中心とする瀬戸内海幹線航路に事業を集中するため、3年に淡路航路を新会社へ譲渡することになる。

 

 この頃の淡路島は、京阪神に近く船便も便利な山紫水明の別天地として、文人墨客や旅人の好奇心をそそる島であった。

 明治40年に民権派の思想家・ジャーナリスト田岡嶺雲(たおかれいうん)が療養のため洲本菰江(古茂江、現・小路谷)の四州園に長期滞在し、そのときの思索と見聞を「孤島の秋」に書いた。(注8)また、当時の流行雑誌『大陽』が明治335月発行の第6号に、作家であり新聞記者であった渡辺霞亭の「淡路紀行」(注9)を載せるなど、中央文壇の著名文筆家により淡路島が紹介された。島内からも淡路協賛会の「淡路案内」(注10)、稲垣禾州の『淡路案内記』(注11)が発行されている。

 同国人ばかりでない、この時期、異国人の淡路案内、旅行記が2種類も刊行されている。一つは、英国人イートン著『淡島遊記』(翻刻本・明治14年刊)(注12)一つは、英国人B.H.チェンバレンの代表作で、明治期の日本を紹介した本としては名著として知られる『日本旅行ハンドブック』(1907・明治40年刊)(注13)で、この本の「セクション4 西部日本と瀬戸内海」のなかで「ルート49 The Island of Awaji」として淡路島が紹介された。

 

 

(注8)「孤島の秋」所収の『病中放浪』(復刻版)田岡嶺雲著・明治43715日・玄黄社

(注9渡辺霞亭著「淡路紀行」(雑誌『大陽』明治335月第6巻第6号・東京博文館)


 

(注10「淡路案内」(淡路新聞号外)・淡路協賛会編・明治36620発行

(注11『淡路案内記』稲垣伊作編著・大正341日再版・成錦堂、藻文堂刊

 

(注12『淡島遊記』英国倚噸氏著、疋田友三郎訳・明治14年5月27日・平瀬與一郎刊

(注13『日本旅行ハンドブック』B.H.チェンバレン、W.B.メイソン共著・1907年・ロンドン

 

 

  (2)摂陽商船の時代  大正3〜昭和16年(1914-1941)

 大正時代に入って、大阪商船は海外航路に主力を置き近距離沿岸航路は分離独立の方針をとり、淡路航路・高松航路およびその使用船を新会社に移譲して別途に経営させることとなった。

 こうして大正311月に設立されたのが摂陽商船株式会社で、資本金は20万円であった。

 摂陽商船は直ちに路線の拡充に力を注いだ。大正4年に甲浦線、5年に兵庫湊線、洲本淡輪線を新設した。15年には4月から10月の期間運行の大阪洲本急行線を開始、船はディーゼルエンジン搭載の新造船天女丸(495㌧)(注1)を配し、大阪洲本間を2時間30分で運行、その姿と快速ぶりが人気をよんだ。さらに、昭和5年にはディーゼルの此花丸(179㌧)(注2)による兵庫洲本急行便を加え、天女丸とともに春から初秋の淡路島観光を盛り上げた。(注3) また、通常便では昭和2年に、これまで高松線の中に組み込まれていた西浦航路を分離独立させた明石江井線を新設し西浦航路を充実した。

 阪神航路の通常便の所要時間は、兵庫・洲本間3時間40分であった(途中寄港地の有無で増減した)。

 この頃の各路線の寄港地と配船名・便数を記すと

   由良線(1号〜3号便)   摂州丸、鶴羽丸、淡州丸 各 1日往復1便

    天保山・兵庫・仮屋・佐野・生穂・志筑・洲本・由良・沼島・福良 

    (所要時間89時間)

  兵庫湊線     いざなぎ丸 1日往復1便

    兵庫・明石・野島・富島・育波・室津・尾崎・郡家・江井・明神・

    都志・鳥飼・湊(所要時間 5時間10分)

  洲本淡輪線 女神丸

    淡輪 由良 洲本(所要時間1時間50分)

  大阪洲本急行便   天女丸  1日往復2便

    大阪 洲本 所要時間 2時間30分)

    大正15年開始  毎年4月〜10月の間営業

  明石江井線 まつほ丸 昭和2年開始 1日往復2便

    明石・野島・富島・斗の内・育波・室津・尾崎・郡家・江井

    (所要時間 2時間30分)

  兵庫洲本急行便 此花丸  1日往復2便

    兵庫 洲本 (所要時間 2時間)

    昭和5年開始  毎年4月から10月まで運行

  福良・沼島便 

    洲本 由良 沼島 福良 

 であり、京阪神・播磨(明石)と淡路島の間をくまなく連絡し、島民の足としての役割を果たした。(注4)

 

          『関西汽船の船半世紀』1994年刊より
          『関西汽船の船半世紀』1994年刊より

 

 

(注1)

天女丸船影 495,54㌧、  昭和5年進水、長さ48,80    巾6,23㍍、  航海速力13,50ノット、   旅客定員890名

 

          『関西汽船の船半世紀』1994年刊より
          『関西汽船の船半世紀』1994年刊より

 

 

(注2)

此花丸船影 179,89㌧   昭和5年進水 長さ38,65     巾5,49㍍   航海速力11,00ノット

旅客定員255名

         (注3)昭和11年4月汽船出帆時刻表・摂陽商船
         (注3)昭和11年4月汽船出帆時刻表・摂陽商船
          (注4)「摂陽商船・淡路と讃岐航路案内(部分」)・大正頃
          (注4)「摂陽商船・淡路と讃岐航路案内(部分」)・大正頃

 摂陽商船時代が始まった大正初期から昭和戦前にかけて、京阪神の大都会に近い淡路島が観光地として脚光をあびた。県や市町の観光連盟、商工会、旅館が一体となって“詩と伝説の淡路島”“神話のくに淡路島”と淡路島観光の宣伝につとめ(注5)、旅情を誘う色彩豊かな旅行案内のリーフレットが各種つくられた。(注6)

 島内の各市町も、東浦沿岸では洲本大浜海水浴場や岩屋海水浴場の開設、観光案内所の設置、西浦沿岸では江井町、郡家町などが夏期臨海学舎を開設、海水浴場とあわせ西浦海岸の観光開発につとめた。おなじ頃、観潮船による鳴門観潮が話題を呼び、淡路島観光には鳴門観潮がなくてはならないものになった。

 また、観光行政の伸展を支える動きとして、島内外の有志による「国立淡路公園期成会」がつくられ運動を展開したのもこの頃であった。(注7)

 また、船の旅にまつわる話題として、摂陽商船時代が始まって間もない大正4年、阪神航路の豊浦丸の船上から母子が須磨沖で投身自殺した事件が全国的な話題となり、「須磨の仇浪」と呼ばれて新聞小説になり映画化された事件があった。

 しかし、やがて時代は昭和6年の満州事変に始まる日中戦争に加えて、昭和16年の太平洋戦争開戦へと進み、戦時体制のもと“欲しがりません勝つまでは”の生活を強いられ、庶民の日常から遊山観光は遠のいていった。そんななか昭和18年に国家の命令により内海航路の再編成が行われ、摂陽商船は関西汽船株式会社へと名を変えた。

 

   (注5)『聖地淡路島』淡路鉄道編・昭和14

   (注6-1)摂陽商船の宣伝リーフレット各種(昭和戦前)

   (注6-2)「洲本へ日かへり観光船」でなく「…日かへり厚生船」と、キャッチコ

      ピーにも太平洋戦争開戦前の臨戦気分があふれている。摂陽商船・昭和16年。

       (注7)

    国立淡路公園期成会結成の趣旨

 「第一条 本会は国立淡路公園期成会ト称シ国家経営ノ下ニ淡路  全島ヲ大公園トナスノ希望ヲ有スル同志者ヲ以テ組織ス」

 

     『国立公園淡路期成会会報』大正11年11月20日・

         国立公園期成会 代表・正井弥右衛門

 

 

  (3)関西汽船の時代  昭和17〜50年(1942-1975)

<昭和戦中>   

 太平洋戦争突入直後の昭和175月、内海航路の一元化という国家の要請をうけて関西汽船株式会社が発足した。参加会社は、大阪商船㈱、摂陽商船㈱、宇和島運輸㈱、土佐商船㈱、住友鉱業㈱、阿波国共同汽船㈱、(合)尼崎汽船部の7社で、新会社は7社が経営の大阪湾沿岸と四国・九州方面への瀬戸内海航路、その全船舶の現物出資をえて資本金1500万円で発足した。

 関西汽船が運行する航路は、摂陽商船時代の高松航路と淡路航路だけから瀬戸内航路全域へと営業区域を拡張し、航路数は大阪別府線ほか29線となった。そのうち淡路航路は7線を占め、その便数は摂陽商船時代と変わらなかったが、天女丸、此花丸の大阪・兵庫から洲本への急行便は各1便増便とし、頻繁になった本土との交通への需要に応えた。

 淡路航路で新らたに設けられた路線は、大阪・郡家急行便で、大阪・岩屋・野島・郡家間を1日1往復、所要時間3時間30分で航行した。(注1)なお、四国航路の大阪・高松線が橅養へ行く途中郡家、江井、都志、湊へ寄港する便が2日に1便運行していた。(注2)

 

 しかし、発足の年の173月戦時海運管理令が公布され、関西汽船では、所有船舶のうち77隻が国家使用船として船員もろとも徴用されたため、次第に7社時代の航路が維持できなくなっていった。

 ことに197月以降の米軍機B29による本土爆撃が始まった戦争末期には、阪神・中国地方への空爆のさい瀬戸内航路への機雷投下を受けて船舶の航行が困難となり、淡路航路も途絶した。(注3)208月の段階で、関西汽船で運行していたのは、尾道・今治線など3路線のみという状況であった。(注4) 

 

 

 

 

(注1)絵葉書となった大阪郡家急行便「此花丸」の船影。

 
 

 

 

 

 

(注2)昭和16年当時の航路図。

(注3)

太平洋戦争末期の航路事情

「昭和205月(終戦の3ヶ月前)空襲の激化にともない、私たち家族は京都から淡路島へ引き揚げてきた。当時私は旧制中学2年生だった。京都からの道々車窓からみる大阪から神戸、明石の町は焼け野原になっていた。この頃にはすでに,大阪天保山や神戸中突堤からの淡路への船便は途絶していたので、明石廻りで淡路島へ渡ろうとしたのだが、出航は不定期だった。待ちくたびれるなか、漸く夜の便が動いたので岩屋へ渡った。もちろんバス便はとっくに終わっている。船から沢山の人が降りたが、皆思い思いに散っていった。私と家族は洲本まで歩くことにした。同じ方向に歩きだした人たちも相当いた。そして、夜空の星をみながらひたすら歩いた。白々と夜が明けてきたのは志筑あたりであったろうか、それとも生穂あたりだったろうか。それまで、淡路島へは数回夏の海水浴で洲本へ来ていて程度だったので、東浦街道の街並みの名を知るよしもなかった。」(筆者の体験より)

 

(注4)

関西汽船の戦争被害は、所有船舶 125隻の⅓にあたる46隻を失った。ちなみに、日本全体では約4,000隻のうち残ったのは僅かに796隻だった。」(『関西汽船25年の歩み』)


 

 

 

<昭和戦後>

 大戦が終わり戦後の廃墟と混乱から立ち直るのに8ヶ月かかった。100㌧以上の船舶を国家使用船として国家の管理下においた統制は昭和21415日に解除されて、関西汽船はこの日から自営運行を開始した。

 当時の利用客は、観光や旅行のためでなく、悪化する食料事情のもと都市部から農村部への買い出しのための利用者が主で、瀬戸内航路全般に旅客の移動は頻繁であった。しかし、船舶の不足、浮遊機雷の危険、燃料事情の悪化などがあり稼働率は悪化した。そんななか、昭和246月に海上運送法の制定にともなう旅客定期航路事業の免許更新があり、関西汽船は40航路を申請し34航路の認可を受けた。このうち淡路に関係する航路は、

 大阪(兵庫)・洲本線、洲本・深日線、明石・湊線、明石・江井線と鳴門観潮船、であった。

 このうち大阪・神戸〜洲本線の推移をたどると、戦前の13便(内、直行1便)が2211月からは新造船はやぶさ丸の就航(注1)14便に、さらに25年には夏季5便、冬季4便、これに26年から夜行便(注1-2)が加わわった。

 

(注1)はやぶさ丸船影 391,20㌧長さ50,73、巾7,70m 速力12ノット 定員405名 『関西汽船の船半世紀』1994年刊より
(注1)はやぶさ丸船影 391,20㌧長さ50,73、巾7,70m 速力12ノット 定員405名 『関西汽船の船半世紀』1994年刊より

   (注1-2)

     夜行便というのは、午前1時に神戸中突堤発で岩屋を経由して洲本へ午前4時頃に着く船  便のこと。この頃、通常便は午後7時神戸発便が最終便だったので、阪神方面で宵から夜を  過ごすと一泊を余儀なくされていたところへこの夜行便ができ、洲本へは朝帰りながら帰  宅し出勤できた。筆者などは、大阪で演劇を観たりコンサートを聴きに行ったときよく利  用した。なお、この夜行便、洲本へ着いてから朝明けまでの数時間、毛布や枕つきで船内  で仮睡させてくれた。利用客も結構いたことを思い出す。

 

 戦争による惨禍から立ち直りつつあった昭和25年、折しも淡路島に2度も薫風が吹きわたった。ひとつは、この年昭和天皇が淡路島へご巡幸になったことである。天皇は海路を山水丸でご来島になり3月30、31日の両日島内を視察された。(注2)このときの淡路島での印象を翌年の歌会始で「淡路なる海べの宿ゆ朝雲のたなびく空をとほく見さけつ」と詠まれた。この歌碑が洲本三熊山々頂にある。もうひとつは、5月に淡路島の9地域が瀬戸内海国立公園の指定を受けたことである。国立公園の指定によって、これまでは春の鳴門観潮と夏期の海水浴場がメインであった淡路島に(注3)、明石海峡地区、常隆寺山地区、先山地区、三熊山地区、由良地区、諭鶴羽山地区、沼島地区、鳴門海峡地の9地区の自然景観という新しい魅力が加わり、以後の淡路島観光の大きなセールスポイントとなった。(注4)

 昭和30年代に入ると、日本経済の高度成長と産業界の技術革新は、新幹線や名神高速道路、ジェット機の登場など交通機関のスピード化をもたらし、國内、国外旅行熱を煽った。これに応えて、淡路島でも島内陸上交通網の整備が行われた。そして、自動車時代の申し子カーフェリーが昭和29年に明石、鳴門海峡間へ就航した。  

 関西汽船ではこうした時代の流れのなか客層の変動に対応して、大阪・神戸〜洲本・由良間の寄港地(岩屋、仮屋、佐野、生穂、志筑、由良)を359月から廃止、神戸・洲本直行便のみの1日4便制とした。おなじ頃、明石・湊線、明石・江井線の西浦航路も廃止となり、淡路航路は大阪神戸・洲本および深日・洲本線のみとなった。(注5)

 一方、残った航路においてはなお一層の高速化がはかられ、375月からは水中翼船はやて1(注6)、はやて2号が投入されて、神戸〜洲本間を、これまで2時間30分かかっていたのを55分で結んだ。さらに新造船あわじ丸(注7)すもと丸(注8)が加わり、夏季5便、冬季4便の定期航路を運行して利用客の確保に務めたが、マイカー時代の到来による、自動車の普及とフェリー航路の増加、終夜運行などによる利用客離れに抗しきれず、昭和50年、阪神淡路航路を共同汽船株式会社に譲渡したのだった。

 

(注2)

昭和25年3月30、31日の両日、昭和天皇の淡路ご巡幸時の映像。

 (左)30日ご乗船の山水丸が洲本港に入港時

 (右)31日山水丸船橋の昭和天皇

    (「天皇陛下をお迎へして」鐘淵紡績株式会社洲本工場・昭和25年)

  山水丸船影 812,46㌧ 昭和9年進水 長さ57,91  巾9,46m  速力12ノット     定員527名 (『関西汽船の船半世紀』所収)
  山水丸船影 812,46㌧ 昭和9年進水 長さ57,91 巾9,46m 速力12ノット     定員527名 (『関西汽船の船半世紀』所収)

    (注3−1)洲本海水浴場の宣伝ポスター・昭和25〜30年代(製作・関西汽船)

(注3-2)

 昭和20年代関西汽船発行の淡路島観光のリーフレット。この時代の淡路島観光は、春の鳴門観潮と夏の海水浴が目玉商品であった。

     (注4)瀬戸内海国立公園区域図(淡路地区周辺)

              水色枠は普通区域、赤色枠は特別区域を示す。

 

 

 

 

(注5)昭和40年代の「淡路島観光地図」、西浦航路は明石・富島間のみとなり、阪神航路も志筑以北の寄港地がなくなり洲本・神戸大阪への直行便のみになっている。その他の航路線はフェリーのもの。

(注6)はやて1号船影
(注6)はやて1号船影
(注7)あわじ丸船影 500,77㌧ 昭和38年進水 長さ54,48 巾8,60m   速力15ノット 定員583名 (『関西汽船の船半世紀』1994年刊)
(注7)あわじ丸船影 500,77㌧ 昭和38年進水 長さ54,48 巾8,60m   速力15ノット 定員583名 (『関西汽船の船半世紀』1994年刊)
(注8)すもと丸船影 518,29㌧ 昭和40年進水 長さ54,47巾8,60m  速力15ノット 定員567名
(注8)すもと丸船影 518,29㌧ 昭和40年進水 長さ54,47巾8,60m 速力15ノット 定員567名

 

   (4)、共同汽船の時代   昭和50〜平成10年(1975-1993)

 昭和5041日、共同汽船は関西汽船から阪神航路の路線と客船など関連資産を譲り受けて営業を開始した。共同汽船は旧社名阿波國共同汽船と称し、明治前期から阿波・讃岐を中心に内海航路を運行していた中堅の運送会社で、社にとって淡路航路を持つことによって京阪神とつながることは大きな魅力であった。共同汽船がまず取組んだのは、高速でかつ悪天候に強い船舶で休航を少なくし、発着の回数を増やすことで減少する利用客の呼び戻しをはかることだった。

 当初は、客船2隻(洲本・神戸間1時間50分)を3便、高速艇2隻(同1時間10分)を4便の1日計7便でスタートしたが、翌51年には高速艇の新造船はまかぜを就航させ客船23便に、高速艇を増便して29便の112便とした。この時の時刻表(注1)をみると、始発の640分から最終便の1810分まで1時間刻みの出航である。52年には客船23便はそのまま、高速艇を3隻に増やし13便とし、同年9月に船足の遅い客船を廃止し、10月から全航路を高速艇に切り替えたのだった。ちなみに、このときの料金は高速艇で洲本から大阪神戸への片道は1,600円、客船は800円だった。

 このうえさらに、54年から高速艇を6(注2)でもって127便というダイヤ改正をおこない、洲本港始発630分から30分間隔の運行を開始した。そのうえ驚くべきことに洲本から大阪・神戸までは同額料金の1,400円に値下げしたのだった。

 

 この“30分ごとに27便”という大改正によって、洲本から阪神方面への通勤通学も容易になり、阪神方面への往来がますます便利なものになった。会社も、鉄道に匹敵する30分間隔の運行というセールスポイントを大きく宣伝した。(注3)

 こうした営業努力の結果、関西汽船から営業を引継いだ当時、洲本港往路の年間旅客人員が17万人と減少していたのが、56年には往路58万人と3倍強に増加するという業績をあげたのだった(関西汽船時代の最盛期昭和44年には洲本港で往路66万人)

 

 このように、淡路島と大阪・神戸を結ぶ海の道・阪神航路は、明治13年の発足からこの日まで、島民の足として時代の嵐のなかで消長してきたのであったが、遂に平成1045日の明石海峡大橋、神戸淡路鳴門自動車道の開通によって廃道とされる日を迎えたのであった。(注4)共同汽船では、この日の洲本発午後824分の上り便、午後114分洲本着の下り便が最終便であったが、お別れのセレモニーもなく、淡路滊船から数えて118年の歴史をもつ阪神航路を閉じるにしては寂しい幕引きであった。

 

 

 (注1)昭和51年当時の時刻表 高速艇便と旅客船便との所要時間の違いに注意。運賃も違う。
 (注1)昭和51年当時の時刻表 高速艇便と旅客船便との所要時間の違いに注意。運賃も違う。
    (注2-1)高速艇「あさかぜ」の船影
    (注2-1)高速艇「あさかぜ」の船影
    (注2-2)高速艇「はまかぜ」の船影
    (注2-2)高速艇「はまかぜ」の船影
       (注3-1)”30分ごと高速艇”の宣伝ポスター
       (注3-1)”30分ごと高速艇”の宣伝ポスター
(注3-2)”30分ごと27便”の宣伝チラシ
(注3-2)”30分ごと27便”の宣伝チラシ
        (注3-3)平成6年の共同汽船時刻表 
        (注3-3)平成6年の共同汽船時刻表 
(注4)1998年4月6日神戸新聞朝刊(切抜きで紙面を構成)
(注4)1998年4月6日神戸新聞朝刊(切抜きで紙面を構成)

 第2節 紀伊・和泉航路

概説

 奈良時代から平安時代にかけて、大和王朝は諸国統治のため全国を五畿七道にわけた。淡路國は紀伊国を始点とし紀淡海峡をわたり淡路島を経て鳴門海峡をまたぎ阿波、愛媛、讃岐、土佐国に通じる南海道に属していた。そして、これらの国々を結ぶ官道を陸上、海上に設け、それぞれの道に駅(海は渡津)を置いた。このうち、淡路国と紀伊国を結ぶ紀淡海峡には紀伊側の加太(かだ。古代は賀太)駅から淡路側の由良駅まで海上約12キロの海の道が設けられていた。

 この加太港と由良港を結ぶ古代の官道は、今でいえば一級国道。中央と地方を結んで人と物資が往来するメインストリートだった。この役割りは近代に至るまで変わることなく、明治維新後は、産業革命を押し進めた近代という時代背景のもと、畿内随一の商工業都市として繁栄をつづける河内・泉南地方へ淡路島から人と物資を運ぶ最短行程の輸送路であった。

 ただ、時代の進展とともに輸送のための船舶が機械化し大型化していくにつけ、海の道を結ぶ渡津は、淡路側は由良から洲本に中心を移し、紀伊・和泉側は加太から淡輪(たんのわ)へと替わっていった。

 しかし、明治・大正・昭和戦前と続いた淡輪航路時代も、第二次大戦後の戦後景気の回復とともに使用船舶の高速化大型化が進むなか、淡輪港は時代の要請に答えられず、昭和24年から改修工事を行って港湾施設を整備した深日(ふけ)港へその役割を移したのだった。

 そして、その深日航路時代も、関西国際空港の開港、神戸淡路鳴門自動車道と鳴門、明石海峡の大橋開通という海陸交通体系が激変するなか、運航会社や使用船舶を変えながら平成11年に至ってその役割を終えたのだった。

 この変遷する紀伊・和泉航路と入れ替わって登場する運航会社の姿を追ってみた。

 

(1)東淡汽船と摂陽商船の時代〜加太航路・淡輪航路〜 

                    明治45〜大正5年(1912-1916)

            明治36当時の航路図(部分)
            明治36当時の航路図(部分)

   明治時代の淡路島と紀州加太港を結ぶ加太航路の古い記録としては、明治4年(1871)加太港に「渡海船2艘」があったとある(注1。これが何処の港との間の渡海船か不明なのだが、其処は奈良時代から連綿千余年にわたる交流の歴史をもつ淡路由良港である可能性が高い。

 明治維新後、近代になって勃興してきた海上貨客運送事業者のなか、明治171884)年に起業した有限責任大阪商船会社(のち大阪商船㈱)は大阪湾沿岸航路の大半を掌握していたがその運航航路表に加太から洲本・由良への航路はなく、資料にあらわれる記録としては、大正3年(1914)に大阪商船から分離設立した摂陽商船㈱が洲本淡輪線の運航を開始した記事が初出である。摂陽商船の社史が記す内容には「東淡汽船合資会社より洲本淡輪線を継承する。純客船女神丸就航す。」とあり、社史付表には東淡汽船所有の浪速丸(78噸)、泉淡丸(31噸)を購入したと記している。

 この記録から、摂陽商船が運航を開始する以前すでに淡路島の地元企業家(注2により紀伊和泉航路が運航されていたことが確認できる。この東淡汽船による運航の始期については、いくつかの資料からみて明治3645年(1904-12)の間と推定している。(注3

 なお、東淡汽船会社以前についても有志者による運航が行われていたと思われる明治36年の記述「由良加太間和船毎日数回」があるが、これを補強する記録は未見である。

 ところで、これまでにみてきた資料では紀伊・和泉航路の寄港地も、加太港単独から加太港淡輪港併用時代、淡輪港単独時代があったようだ。いつ頃にどのような事情によって加太港を廃して淡輪港へ替ったのか明らかでない。ただ、これを推測できる次のような記述がある。

  加太港・大正か昭和前期頃?
  加太港・大正か昭和前期頃?

「加太 明治中期までは大阪と和歌山沿岸を結ぶ定期航路や、淡路航路の発着地となって乗降客が多かったが、明治36年南海鉄道(南海電鉄)難波〜和歌山市間の全通による貨客激減のため、海上交通は次第に衰微し、港町の性格は失われていった」(注4

 この記事にすこし加筆すると、大阪と和歌山を結ぶ南海鉄道が難波〜和歌山市間に全通したとき加太(和歌山県加太町)は本線からはずれた支線にあったため、大阪へ通じる最短、最速距離にあり港がある淡輪(大阪府泉南郡岬町)に駅が開業し、明治36年から明治末年の間に和泉・紀伊航路の寄港地は加太から淡輪へ移った、となる。

 こうした時の流れのなかで、新しい寄港地淡輪港に眼をつけ、地元資本の東淡汽船を買収したのが大阪商船㈱の子会社摂陽商船㈱であった。

 

 注1『角川日本地名大辞典30 和歌山』昭和60年7月8日・角川書店

 注2「東淡汽船」という社名からの推測に過ぎないが、東淡は東淡路の略語とみれる。     明治後期から大正時代の引札に「津名郡浦村 東淡牧場」があり、東淡銀行という金融   機関もあった。

 注3、摂陽商船が東淡汽船から購入した浪速丸、泉淡丸の製造年が明治452る。    (『摂陽商船創立二十週年史』) 他に、『淡路案内記』(大正2年再版)の「泉淡絡」  「海峡連絡」、『淡路名所案内記』(昭和2年刊)の「交通機関大要」、『淡路案内』    (明治36年刊)「船車の便」の各記事。

 注4、前掲書『角川地名大辞典 和歌山』。

 

(2)摂陽商船の時代〜淡輪航路〜  大正5〜昭和18年(1916-1943)

     航路図・昭和4年摂陽商船
     航路図・昭和4年摂陽商船

 摂陽商船は、大正3年(1914)に会社を設立するや早速航路を所有していた東淡汽船の買収にかかり、5年に契約が成立して洲本・淡輪線を社線に加えた。おなじ年、兵庫・湊線も新設しているが、摂陽商船としては、当時全国的に澎湃として起ってきた観光ブームに乗せて阪神航路とあわせて淡輪航路を売りだそうとしたのだった。

 淡輪航路での淡路島から難波までの行程は、洲本発淡輪直行便1時間10分(由良寄港便でも1時間30分)で淡輪港に着き、南海電鉄淡輪駅からみさき公園駅に待つ特急に乗換え難波へ直行すると、電車は1時間で難波へ着いた。神戸廻りで大阪北へ行くのに海上2時間半、電車が40分で、乗継ぎ時間をいれると3時間以上かかっていたのと比較しても、泉南、難波方面への利用客には淡輪コースが早くて便利であったうえ、船酔いしやすい人には神戸・大阪回りにくらべて海上での時間が短いのも魅力であった。

   洲本淡輪線時刻表・昭和6年摂陽商船
   洲本淡輪線時刻表・昭和6年摂陽商船

 船便は、当初1日3便(冬期2便)で、所要時間も洲本・淡輪間110分であったのを昭和7年頃には90分と高速化している。

 このようにして、淡路島と大阪・和歌山を結ぶ航路は紀伊・泉南地方の陸上交通路の発展に呼応して寄港地を替えながら順調に発展していった。

 しかし昭和10年代になって、長引く日中戦争に加えて昭和16年(1941)に始まった太平洋戦争のもと国民生活は戦時体制下におかれ、その一環として昭和18年に国家の命令をうけて大阪湾岸と瀬戸内航路を運航する会社の統合がおこなわれ、摂陽商船㈱は関西汽船㈱と名を変えたのだった。

 

 昭和初期就航していた女神丸船影  174,84㌧ 昭和4進水 長さ34,20  巾5,67m      速力10,50ノット 定員178名 (『関西汽船の船半世紀』所収)
 昭和初期就航していた女神丸船影  174,84㌧ 昭和4進水 長さ34,20 巾5,67m     速力10,50ノット 定員178名 (『関西汽船の船半世紀』所収)

(3)関西汽船の時代 〜淡輪航路・深日航路〜  昭和18〜47年(1943-1972)

     航路図(「淡路島観光案内図」部分)・昭和42年
     航路図(「淡路島観光案内図」部分)・昭和42年

 

 昭和18年(1943)に発足した関西汽船が運航する瀬戸内航路のうち淡路航路は7路線あり、新会社はその一つ淡輪航路では旧会社より1便減じ1日2便として運航を始めた。しかし時代は、戦争末期から終戦時にかけての米軍機による本土空襲が激化した時期にあたり、船員、船舶は徴用と空爆により多大な損傷を受けるなど航路運航の維持が困難な時期であった。(注1)

 戦後、政治経済の混乱と物資不足のなか関西汽船は数ヶ月にして営業を開始したが、船員や船舶の不足から立ち直るには数年を要した。24年(1949)にわが国の海上旅客運送業再建のきっかけとなった旅客定期航路事業の免許更新が行われ、関西汽船は紀伊・泉南航路を洲本・深日線(注2)として認可を受けた。

 戦後の新しい深日航路になって大阪・泉南地方への移動がより便利となり、便数も254月からは多客期13便制に戻し、さらに2641日からは年間1日定期3便制と充実していった。

 

 昭和30年代(1955〜)になると、躍進する日本経済は庶民生活の向上と交通機関の発達をもたらし、人々を観光とリクレエーションへと駆り立てた。京阪神、中京という大都市圏に近い淡路島は日帰り圏内の格好の行楽地であった。京阪神航路とともに、阪南・泉南・紀伊地域と結ぶ深日航路への旅客も増大していった。年間輸送人員でみると、昭和2210,3(万人) であったのが2514,0 3022,6 3537,7 4041,7 10年毎に倍増している。

 こうした好況に対応して、関西汽船では昭和38年には通常便では海路70分を要したところへ水中翼船「はやて2号」を投入して輸送時間を25分と大幅に短縮、また昭和40年には1日5便制に増便さらに通常便に新造線「たんしゅう丸」を就航させた。そして、43年には航路名を深日・洲本線と改めた。ところが、輸送人員は40年を頂点として41年の37,9万人と減少の傾向を示しはじめたのだった。この原因のひとつは、高速道路網の整備と車と人を運ぶフェリーボートの登場があった。

 

        昭和43年の深日・洲本航路時刻表
        昭和43年の深日・洲本航路時刻表
 水中翼船はやて2号船影。61,72㌧  昭和37年進水 長さ19,35 巾4,79m     速力32,40ノット 定員71名
 水中翼船はやて2号船影。61,72㌧ 昭和37年進水 長さ19,35 巾4,79m    速力32,40ノット 定員71名
 たんしゅう丸船影  497,08㌧  昭和42年進水 長さ50,34  巾8,60m       速力15ノット 定員515名 (『関西汽船の船半世紀』所収)
 たんしゅう丸船影  497,08㌧ 昭和42年進水 長さ50,34 巾8,60m      速力15ノット 定員515名 (『関西汽船の船半世紀』所収)

   淡路島では昭和29年(1954)鳴門海峡、明石海峡に県営フェリーが運航を開始したのをきっかけにフェリー時代が到来していた(注3)。昭和36年からは洲本炬口港・深日港間を走る大阪湾航送船㈱(のち大阪湾フェリーと改名)が就航した。加えて、38年には淡路フェリーボートの神戸・淡路航路、四国・淡路航路への就航、41年の国道28号線全線開通、46年の甲子園高速フェリー(西宮フェリー)就航などのマイナス要因が重なり、昭和43年には高速化の旗手として投入した水中翼船が運航6年にして休止に追い込まれたのだった。そして遂に、47年8月航路とたんしゅう丸を深日海運に譲渡し、深日航路から撤退した。(この後、関西汽船は50年に阪神航路を共同汽船に売却し、淡路航路から完全に撤退した。)

 (注1)詳細は「阪神航路 ⑶関西汽船の時代」参照

 (注2)淡輪から深日へ、この寄港地変更には次のような事情があった。

   太平洋戦争終結に先立つ昭和19年に難波和歌山を結ぶ南海鉄道の多奈川支線が開通、   戦後行われた深日港改修工事の完成にあわせて、この支線に昭和24年深日港駅が設置さ   れた。そして渡船が到着する時刻に深日港駅をへて岬公園駅で難波行き急行と接続する   ダイヤが組まれた。こうした整備された港湾と鉄道駅との連携という背景があって、寄   港地が淡輪港から深日港へ移転したと考えられる。

 (注3)淡路島のフェリー時代については第2章で詳述します。

 

(4) 深日海運の時代 〜深日航路〜  昭和47〜平成9年(1972-1997)

 関西汽船が深日航路から撤退するとき、そのあとを継いだのが地元資本の深日海運株式会社だった(注1)航路権と旅客船「たんしゅう丸」を買取った深日海運は、48年には関西汽船時代1日5便だったのを1日6便に増便し積極経営に乗り出した。ところが、途中で由良・深日間を分担運航していた四国資本の南海汽船㈱が不採算航路として離脱したため一時廃業の危機に陥ったことがあったが、航路に生活を依拠している由良住民の陳情をうけ廃業を思いとどまった

 こうして創業時の困難を乗り越えた深日海運は、陸上では新幹線が東京−大阪間を3時間で走っていたスピード時代に対応して、53年に4億円を投入して水冷空調の高速艇ひかり1号、ひかり2号を配備「洲本から大阪難波まで90分」をキャッチフレーズに、便数も通常便も含めて一挙に25便に増便し利用者の拡大を計ったのだった。

 さらに55年に、「くいーんあわじ」(152噸)、56年には国内では唯一の英国製のホーバーマリン 「シーホープ」を購入し観光貸切り客船として配備、さらに、ひかり3号を建造するなどの努力の結果は、年間輸送人員が46万人を数えた。

 

    洲本港を出航する高速艇「ひかり1号」船影 
    洲本港を出航する高速艇「ひかり1号」船影 

(左)深日海運の広告チラシ・昭和58年頃   (右)深日航路時刻表・昭和58年頃

 

 平成6年(1994)の関西国際空港の開港による他社の泉南航路の開始は深日海運にとって大きな脅威であった。この事態には、関空航路を併設し、空港への直行便を洲本から18便、津名から4便を増便して対抗した。しかし、これまで淡路から大阪・泉南方面への航路を独占していた深日航路に、関空経由で和泉佐野への道が新設されたことは大打撃であったうえに、この関空航路には数社が参入していて当初から飽和状態にあった。

 これに加えて、昭和63年から淡路島の寄港地を炬口港から津名港に移した大阪湾フェリーが、人のみでも乗船できるようになったことにより、運賃が安いこの航路に利用者があつまり、深日航路をおびやかしていった。

 こうした結果、幾多の営業努力も甲斐なく深日海運は廃業に追い込まれ、平成9年2月洲本・由良・深日航路をシャトルサービスに譲渡したのだった。

 そして、このシャトルサービスも3年後の平成11年(1999)10月に洲本由良・深日航路から撤退し、由緒あるこの紀伊・泉南航路は長い長い歴史を閉じたのだった。  

      

 (注1)

 社長は小田光雄。小田は当時、淡路連絡汽船、大阪湾フェリー、淡路貨物自動車㈱のほか淡島運輸、洲本瓦斯などの重役をかねた淡路財界の大立物。淡路の海運業界地図を一変させたフェリーの登場は昭和29年の明石、鳴門海峡への県営フェリーが最初だが、民営では小田が35年に設立した大阪湾航送船㈱が最初だった。「地域の繁栄につながらないものは事業としての価値がなく、もちろん永続性もない。」との信条のもと、淡路島の海陸運輸業界をリードした。昭和 年没。才。

 

 

(5)シャトルサービスの時代 〜深日航路〜 平成9〜11年(1997-1999)

 (この時代については資料がないので不明です。)