永田青嵐の歌碑 その問いかけるもの

⑵、歌碑「海晴れて松風清き丘の上に正しき者の墓と呼ばれむ  青嵐 吾耻庵」          砂岩製 高さ×幅×奥行  碑石1480×630×310㍉  (台石2段 600×1130×1040㍉)

     建立年不明                                      所在  南あわじ市倭文長田観音寺墓所


 この石碑は、永田秀次郎(号、青嵐)の辞世の歌を刻んだ歌碑です。 俳人青嵐の名は全国に知れ渡っています。句集等で活字になって流布している俳句は二千数百句ですが、生涯の作句は数万句あるといわれています。しかし、短歌となると、えっ!歌も詠んでいたの?と、誰もが驚くに違いありません。淡路の俳人を研究している北原洋一郎さんの「永田青嵐」(『大阪の俳人たち4』大阪俳句史研究会編・1995年)にも歌のことにはなにも触れていないところをみると、おそらくこの辞世の歌が、唯一のものかもしれません。               この歌碑は倭文長田の観音寺墓所にある永田家の墓地に建てられているのですが、その詞は「海晴れて松風清き丘の上に正しき者の墓と呼ばれむ」とあります。            私の青嵐俳句への印象は、自然や人事を詠んでその眼差しはやわらかく、ほのぼのとする温かさを感じさせられるのですが、この歌には、俳句から受ける印象と全く異なって、厳しい自己観照の眼があり、自己確認の欲求がほとばしっています。死んで後”正しき者”と呼ばれたいという願望は、おそらく死期を迎えるにあたって一時的に湧き起こってきた情念ではないと思います。それは、昭和17年南方赴任で体調を崩し、帰国後病床に伏している月日を、いやもっと以前からの年月を、青嵐の胸の内に鉛の固まりのように澱んでいた想いではなかったかと思うのです。私たち日本人は少年の頃から訓えられてきていました、その人間への評価は棺を覆うてから定まると。                                    それにしても、青嵐は私たちに、何の規範、どんな物差しでもって正しき者か否かを判じろと云っているのでしょうか。私がいま云えるのは、それはただ単なる社会道徳上の正邪の規範ではなく、激動する大正・昭和戦前期を一国の動向を左右するような官吏、政治家として生きてきた己の生き様の正邪を、歴史に、後世の人に問うているのだと思うのです。       この問いかけは重いけれど、いつか誰かが答えなければならないと思います。        なお、辞世の句は「震災忌我に古りゆく月日かな」です。永田家墓地内に歌碑と並んで句碑が建てられています。句文は青嵐の嗣子永田亮一さんが書いています。

 注;歌碑の署名落款の「吾耻庵」は、永田青嵐が俳句以外のところで使っていた庵号 

   で、蔵書印にもこの庵号を使っていました。

 

 

〈注記〉

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[写真説明]

 (上)永田家墓地に建つ永田青嵐の辞世の短歌と句の碑

 (下)永田青嵐の辞世の歌(軸)