〈小伝〉大内兵衛〜戦後の日本を代表する知性〜

 大内兵衛は幕末の英傑勝海舟に似ているという。それは、第二次世界大戦での敗戦や、戦後の対日講和問題などでわが国が未曽有の困難に直面したとき、国民を代表する知性、良心として世論をりードしてきた兵衛の識見と判断力が、勝海舟型であるというのである。 

    昭和二十年(一九四五)十月のこと、当事、敗戦による虚脱状態からまだ抜けきらないでいた国民は、迫りくるインフレの波におびえていた。このとき、兵衛は「渋沢蔵相に与う」という題で十五分ぐらいのラジオ放送を行った。放送は演説口調でなく、やさしいこことばで語られた.「これからはインフレーションはますます大きくなる。生ぬるい考えではやれぬ。渋沢さん、あなたは蛮勇をふるって戦時債務を打ち切りなさい」。                     この放送で兵衛は一躍、時の人となり”蛮勇をふるえ”は流行語となった。この時いらい、兵衛は経世家として大いに活躍し”日本が曲がり角にさしかかるたびに重大な発言をしてきた実力者”と評されるようになった。だからであろう、政治の世界からも誘いがあった。兵衛は,昭和二十年の幻の鳩山内閣での大蔵大臣に補されていたし、続いて成立した第一次吉田内閣の組閣に際しては、三顧の礼をもって入閣を懇請された。しかし兵衛は「政治はぼくの柄でない」と断った。                               戦後、このように華々しく登場してきた兵衛にとって、戦争中は雌伏の時代であった。大正二年(一九一三)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業してすぐ大蔵省に入り、八年には母校に経済学部が新設されるにおよんで助教授に迎えられた。しかし、それも束の間、翌九年(一九二〇)いわゆる森戸事件に連座して大学を免官となり、波乱の生涯の一歩をふみ出したのだった。そして、十二年に教授として大学に復職するまでの間、大原社会問題研究所に入り、私費でドイツヘ留学、そこで主としてマルクス経済学を研究した。昭和五年(一九三〇)こうした研究の集大成は、科学的社会主義の立場から初めて財政学を体系化したとされる大内財政学となり、『財政学大綱』として世に問うたのであった。                       この頃は大正デモクラシーの波が去ったあとで、昭和に入って軍国主義の波が押し寄せていた。三年の三・一五事件以後、日本のファシズムはキバをむいて社会主義者や民主主義者たちに襲いかかった。兵衛は、十三年(一九三八)人民戦線事件の教授グループの一人としで治安維持法違反で起訴され、再び大学を追われた。世間は兵衛らを国賊と呼び白眼視した。 このとき、当時学生であった兵衛の甥が、国賊のようなことをして、と抗議の手紙を出したところ、「国を誤るようなことをしているのではない。必ず無罪である」と、兵衛は返事を送ったという。このとき起訴されて歳末の街頭を囚人の護送車によって巣鴨の拘置所へ運ばれていく時の心中を次のような七言絶句の漢詩に詠んでいる。                    人生五十顛復倒(人生五十にて顛また倒) 

  此志難屈此途遼(この志屈し難くこの途はるかなり)                  檻車再過歳暮巷(檻車ふたたび過ぐ歳暮のまち) 

  明旦改披先師傅(明旦あらためて披かん先師の伝)                                昭和十三年巣鴨行途上 鴎痴 

信じることを貫く不退転の気魂が脈々と伝わってくる。                  兵衛は、明治二十一年(一八八八)三原郡松帆村(現、南あわじ市)の中地主の七男として生まれ、学問的雰囲気の豊かな家庭に育った。地元の松帆尋常高等小学校を卒業後、洲本中学に進み、海軍軍人を志したが近視のため軍人志望をあきらめた。中学卒業後、第五高等学校、東京帝国大学法科大学に入り、当時として新しい学問である経済学をおさめた。       戦後の兵衛の華々しい活動のなかでも昭和四十二年愛弟子美濃部亮吉を擁して革新都政を実現させたことほどジャーナリスティックな事件はなかった。兵衛は自らは政治の領域にふみ出さなかったが、それ以外は多くの分野において超一流の業績を残した。一つは、その本業である経済学、財政学において、一つは、経世家として世論の形成へ主導的役割を果たしたことにおいて、一つは、統計、社会保障行政、私大経営など実務面で手腕を発揮したことにおいて、一つは、すぐれた文筆家としての仕事において、である。                 大内門下からすぐれた弟子たちが育った。大森義太郎、有沢広已、高橋正雄、鈴木武雄、美濃部亮吉など、政、官、財界に大きな大内山脈を形成した。                昭和五十五年(一九八〇)九十二歳で没した。 その著作は多いが、主なものは『大内兵衛著作集』(全十二巻、岩波書店刊)におさめられている。

               (田村昭治著『ここに人あり〜淡路人物誌〜』より転載)       

   <参考文献>大内兵衛著『私の履歴書』(昭和27年・黄土社書店)・大内兵衛著『経済学五十年』(1960年・東京大学出版会)・大内兵衛著『我・人・本』(昭和33年・岩波書店)・『世界・追悼大内兵衛先生』(昭和50年7月号・岩波書店)