〈小伝〉 永田秀次郎〜淡路初めての大臣〜

  東京市長を二度 俳人青嵐としても著名

 昭和十一年(一九三六)三月九日発足した広田弘毅内閣の拓務大臣として永田秀次郎が入閣した。島民は、淡路から初めて大臣を出した喜びに歓声をあげた。洲本中学校では秀次郎の生家まで十二キロの道を、旗行列を連ねてこれを祝った。                       秀次郎はこの後、昭和十四年にも阿部信行内閣の鉄道大臣に推された。しかし、時代は国家総動員法のもと、日中戦争から太平洋戦争前夜へと進むファシズムの全盛期であり、秀次郎が入閣した内閣はいずれも短命であった。そんな時代のなかでの大臣の椅子は、リベラリスト永田にとっては不本意な政治生活を強いられたのではなかったかと思う。

 むしろ、政治家永田にとって最もよき時代だったのは、おそらく東京市長時代であったろう。秀次郎は東京市長を二回務めている。最初は、秀次郎が高級助役を務めていた後藤新平市長が入閣したあとをうけて、四十八歳の大正十二年(一九二三)五月に就任した。通常東京市長は大臣級の政治家がなっていたので、世間は秀次郎を局長級市長と評した。そして、就任後間もなくの九月一日、関東大震災がおこった。永田市長は内務大臣後藤新平の助力をえて専心首都の復興事業に取り組んだのだが、翌十三年九月、局長人事で市会と衝突し辞任してしまった。二回目の市長就任は昭和五年(一九三〇)だったが、この時は二年六カ月務めた。昭和五十四年刊行の『東京百年史』は、市制時代の束京市長十八人のうち名市長と呼ばれる六人として、尾崎行雄、後藤新平らとともに秀次郎をその一人にあげている。                                       市長時代のことで秀次郎にとって最も忘れ難かったことは一期目の関東大震災であったようで、遺詠が「震災忌我に古りゆく月日かな」であった。そして、二期目は首都東京の市長として内政外政に腕を振るった。昭和六年、空の英雄リンドバーク大佐を招いて歓迎会を開いた。また、新設の神宮プールで日米水泳競技会を、あるいはゲーリッグら米国職業野球団を招いて親善試合を行うなど、スポーツを通じて国際親善に努めた。こんな挿話がある。昭和七年来日した喜劇王チャップリンは日本で三人の人物に会いたいと言った。それは東郷元師と総理大臣犬養毅、そして東京市長永田秀次郎だったというのである。                こうして民間外交を積極的に展開した秀次郎の業績で案外知られていないのが、第十二回国際オリンピック大会を東京へ誘致したことである。秀次郎はアジアで初めて開くオリンピックの誘致を発想し、その実現に熱意を燃やした。東京市会の満場一致の承認をえていたが、スポーツ関係者はみな無理だとみていた。ところが、国内あげての運動の結果1936年7月31日のIOC総会は、東京開催を決定したのだった。しかし、昭和十五年の開催は戦雲急なため返上されてしまい、幻の東京オリンピックとなってしまったのだった。          秀次郎が政治家として中央政界に知られるようになったのは、大正五年(一九一六)寺内内閣のとき内務省警保局長となり、時の内務大臣後藤新平の知遇をえるようになってからであった。それまでは、第三高等学校卒業後二十三歳で判検事登用試験、弁護士試験に合格、さらにその翌年には高級官吏の登竜門である高等文官試験に合格したのだが、もう大学へ進む必要はないと故郷へ帰っていた。この間、二十六歳で洲本中学校長となった。官界へは、明治三十七年の大分県視学官を振り出しに、大正五年三重県知事になるまでの十二年間、そのほとんどを地方回りで過ごした。だから大臣になった年、洲本中学校での歓迎会の講演で「私は淡路出身で先輩もなく、三高出身だから大学出身者にも除け者にされた。表面からみると幸運のようであるが、人知れぬ努力、苦労もした積りである。悔し涙も流したことも度々あった」と述懐している。                                       のっぽでヌー坊然とした風貌、何事でもその終わりは”ハッ、ハッ、ハーッ”と笑いとばして誰にも親しみを覚えさせたその人間性は、故郷に帰れば”永田はん””染丈の秀やん”と呼ばれることを喜んだ。秀次郎は、貴族院議員、拓殖大学学長、帝国教育会会長など多くの公職についたが、俳人としても著名で青嵐と号した。高浜虚子、河東碧梧桐らと「ホトトギス」誌上で俳句を論じた。また釣り、連珠にも堪能だった。                       明治九年(一八七六)三原郡倭文村長田(現、南あわじ市)の地主の生まれ。昭和十七年陸軍軍政顧問としてシンガポールヘ赴任中病をえて帰国、昭和十八年(一九四三)六十八歳で亡くなった。墓所には「海晴れて松風清き丘の上に正しき者の墓と呼ばれむ」と刻んだ歌碑が建てられている。                                              田村昭治著『ここに人あり〜淡路人物誌〜』より転載  

 

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  〔作品写真〕

 

 

【俳句短冊】

  「行秋や止まりし儘の屋根時計」 

           「震災雑詠」(『ホトトギス』大正132月号)所収

 この句は、東京市長として大正129月1日の関東大震災に直面した作者が、寝食を抛って被災者の救護に奔走した折々の感懐を詠んだ震災雑詠34句のなかの一つ。この屋根時計の針は午前11時58分を指したまま止まっていたのであろう。ほかに、

  (水道の水絶えて避難者皆梨を喰ひて渇を醫す)

 梨嚙り乍ら生死の巷行く

 秋風や家焼けたるに閉す門

という句もあるが、次の句

  (迷子収容所)

 残る児に連れ帰る児に秋の風

 秋風や顔を背けて人不言

も痛い。

                 

 

 

 

【俳句軸】

 「浪々の古人に似たり秋の風」

   「悠々録」(『ホトトギス』大正14年1月号)所収

 青嵐はこのとき49歳。前年の大正139月に局長人事で東京市議会と意見があわず東京市長を辞職、その後あしかけ7年官界から退いていて浪人の身であった。この間、拓殖大学学長就任、子息亮一を同伴の5ヶ月の欧米視察などで鋭気を養っていた。        青嵐が想う古人とは、誰なのだろうか。

 

 

 

 

 

【俳句短冊】

 「又してもうりばへを追ふ庵主かな」(注;「うりばへ」は漢字→虫扁に雀)

    「高梁集」(『ホトトギス』昭和34月号)所収

  青嵐このとき52歳。第二期目の東京市長に迎えられたのが54歳の昭和5年。第一期目の東京市長を辞した大正末年からこの年まで、青嵐は野にあったが拓殖大学学長就任、欧米視察、関東大震災で亡くなった東京市民供養の高野山詣などの傍ら、文筆にラジオ講話に活躍していた。この時の句はほかに、

  筍を僧と掘るなる自炊かな

  庵涼し刈葱酢味噌に事足りて

がある。この句も高野山のとある草庵で庵主の僧とともに過ごしたひとときを詠んだものであろう。

 

 

 

【俳句短冊】 

  「佛法僧三たひ高野に詣てけり」 

       「高梁集」(『ホトトギス』昭和34月号)所収

 青嵐は、大正13年に第一次東京市長を辞し下野してからの大仕事の一つが、関東大震災で亡くなった人々を供養する霊牌堂を高野山に建設することだった。それは、大震災遭難者5万4千余名の名を、淡路島の淡陶会社が特別に製造したタイルの両面に焼付け、コンクリートの地下室に納めたうえ、その経緯を特別製の紙に墨書してガラス球のなかにいれて埋納するものだった。そして、その費用は他者の合力を求めず、第一期市長を退職したときに贈られた退職金を充てたのだった。

 市長を退職後しばしば高野山に詣でているが、青嵐の高野詣には格別の思いが秘められていたのである。

 

 

【俳句短冊】

  「帰省 なつかしき水の細さよ猫柳」

         「鶯嫁集・春」(『ホトトギス』昭和1112月号)所収

 このとき60歳。昭和113月廣田内閣の拓務大臣に就任、6月に帰郷した。淡路島が生んだ初めての大臣として島民あげて歓迎したが、この時の感懐を詠んだもの。

 1411月に阿部内閣の鉄道大臣となった年の帰郷では、洲本中学校で行った記念講演のなかで「私は淡路出身で先輩もなく、三高出身だから大学出身者にも除け者にされた。表面からみると幸運のようでもあるが、人知れぬ努力、苦労もしたつもりである。涙を流したことも度々あった」と述懐している。

 この句の句碑が、青嵐が故郷を詠んだ句の代表作のひとつとして淡路交通廣田駅構内に建立されていたが、鉄道の廃線とともに現在の地南あわじ市の緑庁舎前苑に移された。

 

 

  〔資料写真〕

 

[写真説明]

   上段;「帝国議会開院式に臨む各国務大臣」

     後列大礼服の右から2人目が拓務大臣永田秀次郎、その前は総理大臣廣田弘毅。

   中段の上; 永田秀次郎の書(封筒の署名)

   中段の下; 雑誌「ホトトギス」の巻頭を飾った永田青嵐の「震災雑詠」「震災雑

     録」の掲載号(大正13年2月号)

   下段;永田青嵐顕彰の全国俳句大会(主催・洲本温泉事業協同組合)の宣伝リーフ

     レット。